今月の釈迦説法
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今月の釈迦説法

釈迦が菩提樹の下で悟り、説いた教えとは中道(ちゅうどう)、縁起(えんぎ)、四聖諦(ししょうたい)、八正道(はっしょうどう) の四つの真理から成り立っています。
これらの修行を積むことによって煩悩をなくし、結果として苦を克服することができるとされています。

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2015年2月

仏道とは真の自己発見

『宗教はご利益を得るためにあるのか』

宗教を対応性の宗教と逆対応性の宗教とに分ける事ができます。

対応性の宗教とは、私の祈りやお願いをかなえて下さる宗教のことで、「イワシの頭も信心から」とまで言われる程、八百万の神々がおられ、私の方から拝み、祈願請求することにより、神仏の方がその事をよく知り、それらの祈りや願いをかなえて下さる、それを御利益と呼んでいるようです。

この場合の宗教は、生活が満たされている時には、忘れられているものですが、生活に何らかの不足や不満が生じたり、お正月のように新しい年へ向かう場合等、「苦しい時の神だのみ」と言われる態度となって、人間の力を超越している神仏に、その不足や不満を、祈りや願いという形で聞いて頂き、それを神仏の力で満たして頂こうと言うのです。

祈りの宗教は全て、このような立場から出ているものです。

しかも、その祈りや願いの内容は、我欲を中心としたエゴイズムに満ちたもので、自らが努力せずして、棚からぼたもち式に、又は人のふんどして幸福を得ようと言うのですから、虫のよい、なまけものの態度でしょう。

平生は何ともなくとも、急に信者らしい姿となり、わずかな賽銭で、神仏を自らの意のままにしようと言うのだから、欲にかかった鬼と同様で、もしもその祈りや願いがかなわないとなると、その原因を神仏のせいにし、悪口をたれて、御利益のある他の神仏へ乗りかえる。

このような人は、神社の御神体が何であるのか?仏教の御本尊様が如何なるものであるのか?

と言うようなことを知らずして、ただ神仏は、祈りや願いの対象として拝めば願いをかなえて下さるという、単純な考え方から出てくる行為ですが、この大切な人生を、祈りや、祈祷、お札、おはらい等によって運が開くであるとか、福を招く等と考えていること自体に大きな問題があることを知らねばなりません。

毎年正月からこのような宗教に出向く人の数は限りないのですが、御利益がないのか、毎年幸福を願い求める人の姿でにぎわっております。

テレビのニュースでその人達の事を「善男子・善女子」「信仰深い人」と申していましたが、私の眼には「欲深い鬼」の姿としか見えませんでしたが如何でしょうか?

対応性の宗教は人間の我欲を充足させる傾向にあって、「御利益のえさ」を以って、宗教に無知なる人間を、最も深い所へ落としているようにも見えます。

福井の永平寺の開山・道元禅師は、「仏道をならうというは自己をならうなり」と言われ、我欲の鬼と化して、自らの気づいていない本当の自己自身そのものに、問いのかかることが仏道であると申されております。

逆対応性の宗教とは、我欲の鬼と化しておりながら、しかも気づいていない、そのような自己が、すでにして、やるせない大いなる如来の大悲の願いの中に許され、生かされてあったことに驚きをもって、めざめてゆく宗教のことで、私の側から願う立場に立つのではなくして、如来の側から願われてあった立場に立つものであります。

しかもそれは如来様からだけでなく、先立った故人や、妻子からも願われてあったと、人生全体に広がりをもってくるものでもあります。己を空しくして如来の大悲心を開き、如来の光明に照らし出されてみると、今まで不足や不満に見えていたものがそのままに、何と言う勿体ないことであり、有難いことであったか気づくに違いありません。そういう意味で、仏道とは真の自己発見であるといえるでしょう。

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