今月の釈迦説法
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今月の釈迦説法

釈迦が菩提樹の下で悟り、説いた教えとは中道(ちゅうどう)、縁起(えんぎ)、四聖諦(ししょうたい)、八正道(はっしょうどう) の四つの真理から成り立っています。
これらの修行を積むことによって煩悩をなくし、結果として苦を克服することができるとされています。

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2017年11月

私と仏さまが一つになる

仏さまの心が私の上に信心となってくださる

 

南無阿弥陀仏は困ったときとか、苦しいときだけとなえるものではありません。また「仏さまた

すけてください」ということが南無阿弥陀仏なのでもありません。苦しい時も楽しい時も、

いつでもどこでも南無阿弥陀仏が私のすべてであって、この南無阿弥陀仏が仏さまのすべてなの

です。つまり私たちと一つになってくださる仏さまなのです。ところが、私たちは通常、阿弥陀

さまは私たちとは別の世界におられるものと見ています。つまり私たちの外側に仏さまをおいて

礼拝しているのではないかと思います。これでは仏さまにいつまでたっても出会うことはできま

せんし、また仏さまの心を知ることもできません。仏さまは私とは別の世界におられる存在では

ありません。私と一つとなってつねに私を根底から照らし出し、私を育ててくださるのが仏さま

なのです。

蓮如上人(れんにょしょうにん)のお言葉を借りますと、仏凡一体(ぶつぼんいったい)です。

かぎりない智慧であり慈悲である仏さまと無明煩悩(むみょうぼんのう)の存在である凡夫(ぼ

んぶ)としての私、仏さまの心(真実)と私の心(虚妄こもう)とが、二つでありながら一つに

なるところを「一体」といいますが、この仏さまと私とが一つになることが、信(信心)であり

ます。仏さまを信ずるということは、仏さまを外側において、その仏さまを私が信ずるというこ

とではありません。私の中に無量寿となり無量光となってつねにはたらいてくださるのが仏さま

であって、その仏さまのことを知り、自己のすべてを投げ出して敬虔(けいけん)に仰いでいく

ことが、仏さまを信ずるということなのです。

この仏さまを信ずることのすべてが南無阿弥陀仏であって、この南無阿弥陀仏が仏さまそのもの

なのです。このことを「仏凡一体」ということばで示されたのです。私と仏さまが一つになって

いるのが南無阿弥陀仏でありますが、それではどういうように一つになっているかといいます

と、私たちは口に南無阿弥陀仏ととなえていますが、この念仏の声がそのまま仏さまの声なの

です。つまり私のとなえる念仏の声の中に仏さまがおいでになるということです。また南無阿弥

陀仏という名号(如来のみ名)のこころを聞きひらくことが信ずるということですが、この信ず

る心(信心)は仏さまの心が私の心となってくださったものであって、信心とは仏さまの心にほ

かなりません。信心が真実心(まことの心)であるといわれるのは、仏さまの心が私のうえに信

心となってくださるからであります。

私の信心となってくださるこの真実心は、名号(すなわち仏さま)が真実であることに拠るので

す。名号は南無阿弥陀仏であって、この南無阿弥陀仏が仏さまであるとともに、私の信心とな

り、私の念仏となってあらわれるのです。だから仏凡一体なのであって、南無阿弥陀仏をおいて

ほかに、信心も念仏もありません。皆さんのお家には、ご本尊として阿弥陀仏を安置していらっ

しゃると思いますが、お家に仏さまを安置するということは、どういうことでしょうか。

それはたんに仏さまを拝むためだけではありません。ご本尊を通して南無阿弥陀仏のこころをわ

が身にいただくためなのです。仏さまを安置するとか、仏さまをお迎えするとかいっています

が、実は仏さまがわが家の主であって、わが家の中心は自分ではなく仏さまなのです。したがっ

て仏さまが主である家に私がともに住まわせていただくのであり、これが仏さまを中心とする日

暮らしにほかなりません。

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