2018年6月
「法を聞く」とは
体の隅々に仏法の水を流す
はじめて、ご法話を聞かれた方が、よく戸惑うことがあります。それは、最後に拍手をしたもの
かどうかということです。ご法話は、落語や講談とはちがいます。ご法話は、他人事として聞い
てはいけません。我が事として聞くものであります。ですから、最後に「よくやった」とか「い
い話だった」とご講師に拍手をしたのでは、相応しくありません。我が事として聞けば拍手はで
きません。合掌しお念仏をして感謝の意を表すのが相応しく、またそれがしきたりにもなってい
るのです。『蓮如上人御一代記聞書』の中に、このようなお話があります。ご法座の席でありま
しょうか。ある方が、「私の心は、籠に水をいれるようなもので、仏さまのお話を、聞いたり
話したりするご法座の間は、有り難くも尊くも思われるのですが、時が過ぎれば、やがてまたも
との心になってしまいます」と、申されました。それに対し、蓮如上人は、「それではその籠を
水に浸けてしまいなさい。我が身を、仏法にひたして置くべきでしょう」と、お答えになりまし
た。信心と生活が、本当の意味で、自然に同化していかなければ、本当の信仰とは言えないとい
うことです。蓮如上人は、こうもおっしゃっておられます。「体の隅々にまで。信心の溝をよく
さらって、そこに阿弥陀さまの、仏法の水を流しなさい」即ち、仏法を身につけてしまいなさい
と言っておられるのです。せっかく、有り難いご法話を聞いても、山門をくぐったとたん忘れて
しまってはなんにもなりません。そのことをよく心得え、仏法を取り返し聞き、だんだんと仏法
を体の中にしみ込ませていかなければなりません。煩悩は、そう簡単にはなくなりません。しか
し、仏法を聞けば聞くほど、身心が柔軟になり、感受性が豊かになり、悦びも大きく、善い心の
状態が長く続きます。言いかえれば、煩悩に流されてしまっている自分自身に気付かされる時間
が早くなり、人生を前向きに力強く生きて行くことができるのです。