2020年10月
「いのち」は誰のものか?
今、いのちがあなたを生きている
東本願寺(京都)
この言葉は、真宗大谷派東本願寺の「親鸞聖人750回御遠忌」のテーマでした。
最初読んだときは、正直なところ、なんだか変な言葉だと思いましたが、よくよく考えると実に
深い言葉なのです。通常、「あなたのいのちが」とするところでしょう。
しかし、「いのち」は誰のものでもありませんし、私の所有物でもありません。そう考えると、
「いのち」が主語になるのもうなずけます。
仏陀の教えを短い言葉で伝えた『発句経』(ほっくきょう)の中に次の一節があります。
「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自
分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろ
うか。仏陀のおっしゃるとおり、そもそも「自己が自分のものではない」。
ですから、いのちを含めたさまざまなもの(子・財など)を「自分のもの」としてしまうのは誤
った感覚です。そもそも、「自分」っていったい何でしょうか?一時期、「自分探し」が流行り
ましたが、残念ながら本当の「自分」なんてものは幻にすぎません。
ですから、「自分」や「自我」という幻の感覚が心の中で肥大化すればするほど悩みや苦しみが
増大することを認識することが大切だと言えるでしょう。
補足
よく自身のいのちや人生を、自分だけの「いのち」だから、自分だけの「人生」だからという表
現を聞くことがあります。確かにその方にとっては、自身のいのちであり自身の人生です。
しかし、本当に自分だけのと言い切ることができるのでしょうか。そう言い切る為には、一つだ
け条件があります。それは、自身の意思でこの世に誕生してきたかどうかってことです。たった
一つの条件すらクリアすることはできません。
自分の意思でこの世に生まれてくることの難しさ〇年の〇月〇日〇曜日に、お父さんは〇〇、お
母さんは〇〇で、男性或いは女性として生まれてくることができるのであれば、全て自身の意思
ですから、「自分だけの」と言い切っていいと思います。このたった一つの条件すらクリアでき
ない訳で、わたしのいのちを辿っていくと、数えきれない程多くのいのちに支えられ、いのちの
流れの上にあるいのちであります。
つまりわたしのいのちは、量りきれ無いほど多くの寿(いのち)の上にあることは、紛れもない
事実です。量りしることの出来ない多くのいのちによって今ここに「生きている」ではなく
「生かされている」いのちであります。
そう考えていくと、私だけのいのちではなく、お預かりしたいのちを今ここに生かされて生きて
いるということです。だから私のいのちではないのです。お預かりしたいのちです。